【転載】『人生を、笑うな。 ~スモーキー・アンド・ビターに寄せる随筆』by貴志ふゆ【レビュー】

 以下は、いつも神威映画を応援してくれている関西在住の若手作家、貴志ふゆ氏によるレビュー。貴志さんのSNSから全文転載。前作『ハートボイルド・フィクション』に続き、いつも素晴らしい表現で映画をご紹介いただき、感謝です。ありがとうございます。  

2020年11月28日 神威杏次

 

(以下、原文ママ。改行のみ一部改訂。)

 

 一つ、先んじて述べておきたい事がある。「人生」についてだ。

 本来、そんなものを偉そうに説けるほど、私は出来た人間ではないし器用でもない。気が付けば損な事ばかりしているし、思い起こせば「お得」なゴール地点をぐるりと遠回りして、社会が言う「人生の為になる事」とは真逆の道を歩き続けている。そういう不器用な足取りで人生という道を歩く人間たちが、この世の中には一定数いるものだ。そして、

この映画の冒頭には、こんな台詞がある。


「損とか得とか、バカらしいよな」
「賛成ね。バカらしいの。人生って」

 

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 これは、人生のジェンダーの物語である。

 

 一般的に「ジェンダー」という単語は、次のように定義されている。“社会的意味合いから見た、男女の性区別”。本来ジェンダーという言葉は、人間の性別における区別の概念と、社会的視野から見たそれの事である。しかし、私はこの映画において「ジェンダー」という言葉を「生き方の区別」として捉えたい。もっと滑らかなアクセントに正せば、「違い」になる。性別の違い、考えの違い、趣味の違い。そして、“生き方”の違い。人間の世界は、我々が想像し得ない程の多様な‘ジェンダー’に溢れていると言っても良い。


 この映画は、明快なロジックで片付けられる程単純な構造は成されていない。相反する論理と感性が、二つの物語の中でチラチラと不規則に交差する。そういう映画だ。

 

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 サイドAとサイドBに分けられた本作、「スモーキー・アンド・ビター」。物語の大半を占めるサイドA「スモーキー」で、工藤俊作が演じる主人公は、記憶を無くして風に導かれるまま「吹き溜まりの町」にたどり着いた中年男性である。この吹き溜まりの町には一癖も二癖もある裏社会の人間たちが集っており、鑑賞した限りは恐らく「派遣型アウトサイダー事務所」のようなものをコミュニティとしている。悪人専門の派遣会社事務所といえばわかりやすいかもしれない。坂本三成演じるこの町の「顔役」の男、そして平塚千瑛が演じる、その妻。サイドAはこの三人を軸として、危ない男たち、素性のわからない妖しげな女たち、それらがぐるぐると人間の業の渦を巻く。

 

 ハードボイルド映画ではあるのだが、神威映画はその硬質な遺伝子を受け継ぐ中にもコミカルな作風が特徴的だ。前作『ハードボイルド・フィクション』同様、随所に笑いを盛り込んでいる。記憶喪失だが、所持品に銃を持つ主人公はどう考えても裏社会を生きる男なのに、工藤氏の人柄でそうなっているのか意図的な演出なのか定かではないが、どうしてもズッコケたキャラクターが印象に残る。

 

 対して、サイドB「ビター」。萩原佐代子が演じる「レイコ」という女性は、訳もわからぬまま警察に追われている……というのが、二つ目の物語のイントロダクションだ。このサイドB、サイドAとは打って変わって非常に重い空気が漂う。コミカルなど一縷の欠片も見当たらない物語で、それを証明するかのように、物語の背景はにび色に曇り、雨に彩られている。

 まるで、登場人物たちの「見えない涙」にまみれた心を映し出すように。

 

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 このサイドBはサイドAに比べると非常に難解で、解を導くために必要な数値がでたらめに配置された数式のような印象を受ける。レイコは過去に起きた連続殺人事件の容疑者として追われていた訳であるのだが、レイコには身に覚えがない。それもそのはず、彼女にはもう一つ「マリア」という意識が存在する。ここで、私が「別人格」ではなく「意識」と表現したのには理由がある。マリアとはレイコの無意識下で表れる「もう一つの意識体」であり、彼女の「消失した三年間の記憶」なのだ。多重人格性障害と違い、一つの身体に二つの意識があると思えば良い。


 なぜそんなことに?と思うかもしれない。何故レイコは三年間も記憶を無くしたのか。彼女の身体に何が起きているのか。ネタバレになるのであまり深くは言えないが、彼女は「ある出来事」に絶望し精神が大きく揺らぎ、その自己防衛手段として自身で三年間の記憶を消し飛ばしたのだ。これ以上の心の被害を受けないように。辛い苦しみによって精神が破綻してしまわないように。そう、まるでブレーカーが落ちるかの如く。

 

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 人生には様々な出来事がある。嬉しいこと、楽しいこと、辛いこと、苦しいこと。何かを得ること。そして、何かを喪うということ。例え自己の価値観に相反するものだらけで、どんなに無様だとしても、それはそれで人生だ。反対に、得るものや得ることが多く、何不自由ない薔薇色の人生も存在する。何一つ平等などではない。


 それら不平等な人生のジェンダーに晒されながらも、人は歩むことを諦めてはならない。

 多くの人々は「人生を一本の線」と認識しているが、それは誤認だ。人生とは、線ではなく点だ。もしも長い道のりの最中に行き詰まったら、そこで終わりなのか。そんなわけない。例えどんなに僅かな点であったとしても、その時その時の一瞬こそが人生だ。それらを見落とし、「ここで行き止まりだ」「これ以上は歩けない、道は終わり」と諦めれば、そこでその人間の人生は幕引きとなる。それでは、あまりにも命が勿体無い。

 辛いことは、乗り越えるしかない。苦しいことは、それを自分の力にしていくしかない。生まれたからには、生きる事を放棄する事など許されない。

 

 木々の揺れる音を聞いて、さざ波に心を寄せて、流れる雲に視線を任せて、何処へ行くとも知れない風に心を任せて。そうやって、呼吸が楽になったら、また歩き出せば良い。いい加減な綺麗事でしかないが、きっとそれが一番良いはずだ。

 

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 サイドA、Bのクライマックス、それまで別々の線を描いていた物語は、同じ線の上に神威杏次のメッセージが重なる。

 痛みと喪失、その先にある小さな希望。

 サイドAにて主人公は「記憶」を、町の顔役の男は「守りたかった家族のようなコミュニティ」を、サイドBにてレイコは「大切な人」と「三年間の自分の記憶」を喪った。しかし、そこから彼等の新たな人生が始まる。


 生きる事を、歩き出すことを諦めない彼等の姿を見て観客はきっとこう思うだろう。
「生きるってことは喪う事ばかりじゃないんだな」と。

 

「スモーキー・アンド・ビター」。これは、人生のジェンダーの物語だ。


しかし、この映画に“人生の区別”は存在しない。誰にでも起こりうる「人生のジェンダーの物事」なのだ。 喪失と再生、不平等な人生の中において、誰にでも平等に与えられた「生き方」だけは見失ってはならない。


「こんなはずじゃなかった」人生を、こんなはずじゃなかったなりに、背負い続けること。途中で「歩くこと」を投げ出さずに。それが、世の中を少しでもマシに生きていく為にもっとも大事な事ではないだろうか。

 

神威杏次監督作品「スモーキー・アンド・ビター」。コミカル&サスペンスフルに展開するストーリーの中に垣間見る高い芸術性と現実性。

 

紛れもなく、高難度かつ高精度な「映像文学」である。

 

文:貴志 ふゆ(詩人、小説家)

 

▼貴志ふゆ氏による前作『ハートボイルド・フィクションに寄せて』 movie.kamuin.com