【転載】「ハートボイルド・フィクションに寄せて」by貴志ふゆ【レビュー】

  以下の記事は、作家の貴志ふゆさんがご自分のSNSに記載された「ハートボイルド・フィクション」に関する記事を、ご本人の承諾を得て、ほぼ原文ママ(一部割愛)にて転載したものです。素晴らしいレビューをありがとうございます。 

 2020年1月29日 神威杏次

 

===以下、転載===

 

 キャンディの缶の中から、その中身の一つを取り出すとする。口に含んで、ゆっくりと舌で表面を溶かしながら転がしていく。その味が一体何の味なのか、舐めている間は全くわからない。暫くして、これは苺なのではないか、いや、そうではないかもしれない、別の果物か、或いは果物ではないかも、などと色々考える。
 思考という行為の、その中に確かに答えがあるはずなのに、我々はそれを見つける事が出来ない。果たして、我々が昨年味わっていたこの未知のキャンディの味の正体は、一体何であろうか。

 

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 かつて東映特撮番組で数多くのヴィランを演じた俳優、神威杏次氏に御会いしたのが昨年6月の尼崎。去る1994年、麗らかな春に封切られた映画「仮面ライダーJ」の25周年を記念したトークイベント…(中略)

 その流れで当時、神威氏が手掛けていた映画「ハートボイルド・フィクション」の上映支援のクラウドファンディングのキャンペーンに関する話になった。神威氏がいくつかの短編映画を作っている、という事は事前に知っていたのだが、聞けば「ハートボイルド・フィクション」は短編ではなく長編映画。「スタッフゼロ、全てを神威氏が手掛ける究極の自主製作映画です」と聞いてはいたのだが、それを90分の尺でもやったのかと思うと、目眩がした。ハッキリ言って無茶苦茶である。

 かつてショーン・S・カニンガムが「13日の金曜日」を手掛けた時も、キャストが来ないだの美術も小道具もメイクも製作スタッフがことごとく足らないだの、そんな状態だった。その上「こんな額で映画が作れるか!」という程の低予算だった訳で、そういう何もかもがヤケクソのような始まり方の製作現場というものも、そこからメジャーな作品が生まれるという逆転ホームラン劇も、映画の世界には無いことはない。だが、専任スタッフゼロ、という製作現場は聞いたことがない。…(中略)

 しかし、神威氏はそれをやり遂げた。キャストが様々な作業を手伝ってくれた、とは話していたものの、それでもハード過ぎる。映画の製作現場として成り立たないレベルなのだ。それをやり遂げて、その上で上映支援のクラウドファンディングを募るところまで持ってきていたのである。これはほとんど、情熱の暴走の為せる技だ。

 では、その神威氏がありったけの情熱を注ぎ込んだ「ハートボイルド・フィクション」とは、一体どんな映画だったのか。彼は、それほどまでにして一体何を描こうとしていたのか。

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 映画は呼吸するアートだ。生きものであるゆえ、創る側であれ観る側であれ、映画と大真面目に向き合おうとすると、それは決して生半可な作業にはなり得ない。我々は映画と接する時、しばしば物語の輪郭や整合性を重要視する傾向がある。「物事には何処かに本質があるはずだ!」そういう風に、物語の核となるものの正体を探る作業が、「映画を観る」という行為であると認識するのだ。「この物語が伝えたい内容は何か」
「整合性が何となく薄い気がする」などなど。そういう先入観を積み重ねて、人は映画の作品としての好き嫌いを、自身の中に刷り込んでいく。しかし、それでは「ハートボイルド・フィクション」という映画の本質は全く見えない。この映画は、その手の内をなかなか私たちには明かしてはくれないのである。

「ハートボイルド・フィクション」というタイトルを、彼の言葉そのものを借りて訳すとするなら、「心を焦がす物語」である。ハードボイルドな物語ではあっても、未見の観客が想像するようなハードなバイオレンスシーンは、この映画には無い。従来のハードボイルド映画に見られる、バイオレンスとロマンスに満ちた硬質な遺伝子は確かに継承しているが、しかし、何かが新しい。この映画に出てくる登場人物たちは皆どこか変わっていて、可愛らしいのだ。例えば、いい歳のおじさん二人が突然、じゃれあいのような戦いを始めたとしたら、それはきっと可愛い。しかし、端から見れば違う意見も出てくるだろう。最終的に、「どちらの比率が高いか」という問題の別れ方になってしまうに違いない。

「答えがない」この映画は、まさにそれに尽きている。「こんな人をターゲットにしてますよ」という明確な指針は見られないのに、着地点はハッキリとしている。そして、そこに立てられたフラッグは強靭な意志を持って観客に究極の難題を叩き付けてくる。「正義とは何か」という難題だ。

 

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 盗みを繰り返しながらも、生きていくために必要最低限の盗みしか働かない男と、単なる窃盗癖を持つだけの女の奇妙なカップル。狂言誘拐の常習犯である娘と、うだつのあがらない中年男性。殺し屋にしか見えない何でも屋、漠然と今を生きる、将来のヴィジョンに不安を隠し持つフリーター。見えない秘密を隠し持つバーの客の男と居合わせた女、バーを一人で切り盛りするマスターの男。女優志望の女と承認欲求の強さゆえに生き方に迷うパンクな女。謎に満ちたメンヘラ女探偵、そして様々な事件の解決の影にちらつき、ある理由から街を去る探偵「クロネコ」。


 幾つもの組み合わせで登場人物たちは、各々の物語を展開していく。そしてそれらバラバラに見えた「点」同士が、やがて一本の線になってゆく。繋がらない物語が繋がり始め、一つの大きな物語を編み上げていき、そして映画は衝撃のラストを迎えるのだ。
 このラストが、また素晴らしく疾走感に満ちているところが、この映画の持つ中毒性の一つの要因だ。麻薬と一緒で、徐々に中毒効果が現れ始めるところも、文章ではよくあるものだが映画、特に邦画というくくりでは中々見られないものである。

 街と探偵は二つで一つ、セットである。どちらかがその片方と距離を置く時、物語は終わる。しかし、この映画ではそういう関係性の終わりは見受けられなかった。去り行く探偵を「覚えている」人や、救われた人が強い思念と意志を持って、その街で生きるという選択を下したからではないかと私は思う。

 

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「誰かのために泣くこと。誰かのために祈ること」
 本作のキャッチコピーであるが、映画を観終わった時、観客はそのことを必ず思い出すだろう。一人では生きていけない個々の生命体が、繋がりながら生きていく。それが生命なのだ。当たり前の事ほど、それを正しく認識するのは難しい。


 強く生きる、正しく生きる事の難しさ。すれ違い、涙で世界を濡らし、それでもまた上手く歩けるようになるために。探偵とは、そういう人々の靴のようなものだと私は思う。
 それぞれの心に何かを抱えて生きる人々は、ラストで、その靴を脱ぎ捨てるのだ。古い靴を脱ぎ捨て、心を闇に囚われた「ここ」ではない何処かへ、人生の、もっと遠くへと走り出す。

 

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「ハートボイルド・フィクション」。
 それは、決して空想に満ちた物語ではない。今ここに生きる全ての人、我々観客、誰しもが心に必ず持っているものの物語なのだ。
 正義とは何か。そんなものに答えはない。

  自分で選択し、自分で責任を取り、自分で掴むのだ。90分の中に込められた「生きる」ということのすべて。その道のりのガイドブックの端に書き添えられた「自分ではない、誰かのことを想うこと」。

 例えばそれがほんの一瞬だとしても、何かの習慣のように、人々が他者を想う。まだ世界の教科書には載っていないが、臭い綺麗事として処理されてきたもの、それを人々は「奇跡」と呼ぶのだろう。

2020.1.22.
貴志ふゆ

 

===転載以上===